西原ワールド アート医研

赤ちゃんはいつ「人間」になるのか(1998)

book000日本の育児は、どこが間違っているのか
生まれたばかりの赤ちゃんは、その身体の構造や仕組みがイヌやネコ、あるいはサルといった哺乳動物ときわめて似ている──最近になって、こうした事実が明らかになってきました。これまでは漠然と「人間は、生まれたときからヒトである」と考えられてきたのですが、実際に赤ちゃんが「人間らしく」なるには、生まれてから相当の時間を必要とするのです。
ところが今の日本では、「赤ちゃんに栄養を与えて太らせ、大きくするのが育児だ」と思われています。つまり「赤ちゃんは”ミニ人間”なのだから、一刻も早く大きく育てればそれでいい」という発想です。そこでは、医学的に見ても動物的に見ても、赤ちゃんと大人の身体がまったく違うという事実が完全に無視されています。
日本の大半の子どもが”半病人”になってしまったのは、こうした間違った「育児常識」のためです。小児性アトピーや小児喘息が増えたのも、また、明朗活発な子どもが減ってしまったのも、その大きな原因は、人生の出発点にあたる赤ちゃんの時期に、実態を無視した子育てが行われてしまったことにあるのです。
実は、このような誤った育児法が行われているのは、先進国では日本だけに限られています。何でも欧米の真似をしてきたはずの日本で、どうしてこんなにデタラメが行われるようになったかと言えば、欧米では5、60年前に失敗に気づき、すでに育児法も改められているのに、いまだに日本では旧来のやり方が頑迷に守られているからなのです。
来るべき二十一世紀の日本を支えるのは、今日の子どもたちです。現在のような状況が続けば、遠からず日本全体からバイタリティが失われてしまうことになるかもしれません。
本書は、そうした現代の育事常識の誤りを正し、臨床医学と生命進化(系統発生学)の観点から、「健やかに育てるためには、どうすればよいのか」を明らかにしたものです。

生命進化から見た「赤ちゃん」
ところで、口腔科を専門とする私が、なぜ育児の問題に興味を持つようになったかを、ここで簡単に記しておきたいと思います。
東大病院で病気の治療を通して臨床研究を実践するかたわら、私は骨と歯の研究を通して生命進化(系統発生)の法則を明らかにする実験研究を続けてきました。
現代科学では、生命進化の研究は生物学者の「縄張り」だと考えられています。実際、現役の医者で生命進化の研究や実験を本格的に行っているのは、世界でも数えるほどしかおりません。
しかし本来、生命進化の問題は医学者にとっても重要なことなのです。
なぜなら人間も、生命進化によって誕生した哺乳動物の一員です。人間は優れた知恵や文明を持っていますが、だからといって哺乳動物から抜け出したわけではありません。人間もやはり動物であり、人間の医学を深く知るには、ヒトの「祖先」や「親戚」にあたる動物の身体を比較研究し、”進化の秘密”を究明する必要があるのです。
実際、私が世界で初めて原因不明の免疫病の大半が「口呼吸病」(本文41ページ)であることを明らかにできたのも、進化学の研究を行ったおかげでした。医学と生命進化の問題は深く結び付いているのです。
私が育児の問題に関心を抱いたのも、生命進化の研究がきっかけになっています。
すでに記したように、人間の赤ちゃんは、哺乳動物の特徴を持っています。それが成長するにしたがい、普通の哺乳動物には見られない身体のつくりを持つ人間になっていく──こんなふうに成長していく動物は、ヒトの他にいないことに気がついたときから、育児法に関心を持つようになったのです。そして研究を続けていくうちに、日本の育事常識が生物学的に見て誤りの多いものであることに気がつき、大きなショックを覚えたわけです。
人生の出発点である赤ちゃんのころに、間違った育児が行われれば、それは大きくなってからの健康にも大きな影響を与えます。
実際に、東大病院で診察・治療している患者さんの中にも「赤ちゃんのころに適切に育てられていれば、こんな難病にかかるのは避けられたはずだ」と思えるケースが、実に多いのです。育児の誤りが与える影響の大きさには、驚くべきものがあります。
「育児常識が欧米先進国なみにならないかぎり、同じ悲劇は今後も続く。この状況を早急に改めなければならない」──小児の専門医ではない私が、あえて本書を執筆した理由がここにあります。本書が多くの読者に迎えられ、ふたたび日本に元気で健やかな子どもが満ち溢れる日が来ることを願ってやみません。
なお、本書では一般の読者のために、専門用語をなるべく避けて執筆したことをお断りしておきます。専門家から見れば「不正確」と判定されかねない表現であっても、分かりやすさを優先し、あえて使った個所もあります。私の研究や臨床例の詳細については、雑誌・学会誌などで発表した論文、あるいは拙著を参照いただければ幸いです。

平成十年六月
西原克成
クレスト社/¥1,300(税別)/1998